同行者 － 立原道造へのモノローグ
Ⅰ
中村真一郎が｢いつの間にかわたしが，24歳で死んだ立原道造の父親だと言ってもおかしくない年齢になった｣と書いているのは，角川文庫の『立原道造詩集』の解説だったと思うけど，記憶がはっきりしません。この文章に接したのは，中学校の図書室で出逢って間もない，わたしが14～15歳頃のこと。わたしはあなたの賛美者でした。ほかの詩人の詩は読みたくなくなるほどに。
それから40年以上の歳月を経て，出会いの頃の熱中はしだいに冷めても，今でもあなたはわたしの一番好きな詩人です。何かのおりに詩集を開き，読み返す，そんなことを繰り返しているうちに，わたしはあなたをいつの間にか同行者のように意識するようになりました。そして最近になって，詩や散文(歌物語)などの作品だけでなく，書簡や手記，ノートのたぐいにも目を通しました。同行者の人生をもっとよく知りたいと思って。
24年の生涯といっても，子供の頃のつたない手紙は別にして，ある程度自分を語り始める18～19歳くらいから5～6年の間に，現在残っているだけで700通近くの手紙を書いている。受取人が紛失したり捨たりしたものもあるはずだから，実際に書いた手紙はこれよりももっと多いでしょう。あなたは実に筆まめな人でした。
このたくさんの手紙を年代順に読み，さらに手記『火山灰』，『盛岡ノート』，『長崎ノート』も読み通すと，作品だけからイメージしていたのとは違う人物像が浮かんできます。それは，作品に基づくイメージからかけ離れたものではないけど，｢意外｣の感と｢やっぱりそうか｣という思いを同じ程度に呼び起こします。その人物像を｢鷹になりたかった小鳥｣と要約するのは，あなたにとって不本意でしょうか？
小鳥として美しい歌を歌い上げ，それによって愛された。愛されるに値する美しく軽やかな歌を歌いこなせる小鳥として満足しても良かったはずなのに，あなたは鷹の力強さに憧れた。たぶん，自分の弱さを自覚していたから。
あなたは，子供の頃から周りの大人たちにも同年配の子供たちにも愛された人だったけど，それなのにと言うべきかだからこそと言うべきか，孤独を恐れ，愛情や友情を求め，愛されることを願い，見捨てられることに病的なほどの不安を感じ続けていました。
1938年(死ぬ前の年)の秋，旅先の盛岡から堀辰雄に宛てた有名な手紙の一節，｢あなたが自分のまわりに孤独をおいた日々はどんなに美しかったか，僕はそれを羨むことでいまを築いているといったっていいくらいです････｣
かつて，作品を通してだけあなたを知っていた頃にこれを読んで，あなたもまた孤独の世界の住人なのだろうと思っていたけど，今，多くの手紙や手記とあわせて読むと，むしろあなたは孤独に耐えられないからこそ，堀辰雄が自分のまわりにおいた孤独を羨んだのでしょう。
東京帝国大学建築学科の卒業制作が一部の教授たちから高い評価を得られず，辰野賞が銀牌でなく銅牌であったのを残念がっていたと学生時代の親友，小場晴夫が回想していますが，時代を切り開くような傑作は一部の熱烈な支持と同時にもう一方からの激烈な反発を招くことは，あなたもよく知っていたでしょう。でも，あなたは，すべての教授たちから評価されることを願っていたんですね。
そして，友人たち。
あなたは友人たちと文学を語り合い，激論に及ぶことも多かったし，自分の意見を頑強に主張したけど，一方では友情を求めた。だから，激論して別れた後は，友情を修復し維持するためにもせっせと手紙を書いた。その中には，自分に対する相手の気持ちを確認し，今も自分を愛してくれているのかと問いかける恋文とさえ呼べそうなものもあります。杉浦明平とか生田勉とか柴岡亥佐雄といった，あなたと多くの手紙を交わしあった友人であれば，一度や二度はこの種の手紙をあなたから受け取っています。
たとえば，
杉浦明平宛なら，1935年1月8日の手紙
｢････僕は千万言しゃべっても，君にたったひとつのことはいえないのだ。それは僕が山師だからであった。僕は，君を僕のなかから失いたくないのだ。それがいいたいのだ。それを，もっとほんとうのことばで，君にいいかけたかった････｣
そして同年5月上旬の手紙
｢････そして いちばん 大切な疑問。－ 僕は 君を こんな仕方で愛しつづけてよいのだろうか。僕は 君から もしそうだとして，こんな仕方で愛されてよいのだろうか。････｣
柴岡亥佐雄宛なら，1935年11月11日の手紙
｢････君が もし こんな僕を きらいであったら。それが あたりまえのことかも知れない！ だのに，だのに。なぜかしら？ 僕は，僕もっともっと 君がすきであってくれるような，そういう僕を信じたい。だが，それは いったいどんな僕かしら････
君は 僕に 意地わるくなったわけを 教えてくれないだろう。それは かまわない － ただ もう二度と あんなことをしないと それだけ言ってくれ。それも出来ないなら 意気地のない僕を もっともっとばかにして もっともっと意地わるくしておくれ････｣
生田勉宛なら1937年1月16日の手紙
｢････誇張と修辞をとおくはなれよ，－ そして僕は君なしには生きられない。君をふかく愛する。そしてこれは決して恋愛の心でなく友情の心だと知るがいい。情緒のありかではなく，悟性と感性とのかなしいふるさとであることを知るがいい････｣
など。
恋文というほどではなく相手の好意を求めるくらいの手紙はもっと多いし，｢うちに遊びに来てほしい｣とか，学校あるいは街中の喫茶店などで会ってほしいと願いを書いた手紙は数え切れないほどあります。寂しがり屋だったんですね。
その文面・言葉遣いは相手によって違いがあるけど，たとえば，ほかの誰よりも分かりあえていると信じ，お互いに言いたいことを言いあえる親友であった(少なくとも1937年頃までは)杉浦明平宛の1934年5月25日の葉書；
ミン・よ！ぼくと・はやく会わないと・ぼくは借金を・忘れてしまうぞ。それから・あべこべに・金を貸したなどと・こちらで・言い張るぞ。それが・いやなら・製図室へ・会いに来い。土曜日でも・ひるすぎまで・画いている。ミン・よ！用事は・おわったよ・
冗談めかした横柄そうな口ぶりの向こうに，ぜひ会いに来てほしいという願望が透けて見える文面です。たまにこんな葉書を書き送るのなら，ほほえましいけど，頻繁に書き送っているのを見ると，ちょっと切ない気もしますよ。
でもその一方で，そんな自分の弱さを嫌い，力を指向するような手紙もあります。
杉浦明平宛1935年7月12日の葉書
｢････僕は，退屈している時間，思い迷っている時間，卑しい笑いを頬に浮かべている時間をはじき飛ばそう。永久めそめそしなしなとした僕を叩きつぶそう････｣
生田勉宛1935年7月26日の手紙
｢････この神への意志，しかもそれは嘗てのよう花鳥風月の清澄な世界への逃避ではなく，機械とのあらがいのなかにはいって，苦悩多く求められるべき意志，これこそ詩のモメントであった････｣
小場晴夫宛1936年10月31日の手紙
｢････僕の旗はうなだれてはいない， 風に，自分の邁進によっておこる風に はためいている， たとい それを把持する手に 弱い青さがのこっているにせよ，僕はそれを克服するだろう。そして，激しい強さとなって 更に進むであろう。 旗手であると自覚する････｣
など，時を経るにつれて力への指向が前面に現われるようになる。
それでも，1937年1月5日に生田勉に宛てた手紙の中で，自分の部屋で夜になるとあばれる鼠を描写し｢ちいさい，こせこせとした，卑しげな顔････おどおどしている瞳････いつも，おびえた気持ちでかくれて生きている｣鼠に愛着を寄せながらも，人としては，鼠を害獣として駆除すべきであるのなら，それを断行する力を意志しなければならないと自らに語りかけるように書くあなたは痛ましい。
このように自分の弱さを自覚し，それに打ち勝つ力を渇望したあなたが，無防備に自分の姿をさらすことができた相手は母だけだったかもしれませんね。18～19歳の頃，旧制高校の学生だった頃，夏休みを過ごした奥多摩から母に宛てた手紙を読むと，もうじき成人年齢になろうとする人が書いたものとは思えないほど幼く，甘えがこもっているように感じます。わたしの方が，肉親の情が薄すぎるのでしょうか。
その後，20歳を過ぎる頃から，母親宛の手紙はめっきり少なくなり，ほかの友人たちへの手紙が大部分を占めるようになるけど，生涯の最後，手紙ではなく手記『長崎ノート』の終わり近くで，幼子に退行するように母親への呼びかけ，依存，甘えが表出されるのは，痛々しく切ない。
あなたの詩の世界，それは，このようなあなた自身の弱さがそのまま投影されているように見えて，実は現実から切断され，言葉によって丹念に人工的に作り上げられた叙情詩の世界であり，現実の自分の弱さや欠点を十分に分かっていたあなたが，意識的に現実をフィルターにかけて作り上げた虚構の世界でしょう。そこに登場する鮎子とかエリーザベトと呼ばれる恋人も，あなたの人生の中でそのモデルと想定される何人かの女性はいるけど，それら生身の女性を超えて，詩の素材として抽象化された虚構の人物なのですね。その世界では，｢わたし｣とか｢僕｣という名で語られる詩人みずからも｢金属となり結晶質となり天使となり，生きたる者と死したる者の中間者として漂う｣。見捨てられ不安も，人に愛され評価されたいという切ない願いも，人生に足を踏み出す時の恐れも，すべて現実世界での重みをなくし，詩の舞台背景として昇華する美的仮象の世界。
そのようなものであるからこそ，あなたの詩は世代を超えて読み継がれ，人はそれに惹きつけられる。もちろん，わたしも惹かれます。
このようなあなたであれば，詩人として出発する時点から，リアリズムをきっぱり拒否したのも自然な成り行きです。あの当時，1930年前後の日本のリアリズムのレベルを考えれば，それに反発するのも当然かもしれないけど，現実に立脚した文学という発想そのものが，あなたには受け入れられなかった。
そして，あの時代の日本にあって，リアリズムに反発する文学者たちは，堀辰雄や永井荷風といった少数の例外を除けば，日本浪漫派に吸い寄せられたし，そこで繰り広げられた力への意志や血と鉄のナショナリズムは，鷹になりたい小鳥にとって魅力的であったろうから，あなたが日本浪漫派に行き着くのはほとんど必然だったとも思えます。ただ，ヒトラーの『わが闘争』を礼賛し，ナチズムを称え，日本の軍国主義の片棒を担ぐようになる日本浪漫派の政治的な意味を，あなたが理解していたとは思えない。
小山正孝に宛てた1938年11月11日の手紙にある｢ジョルダノ・ブルノオや小林多喜二の死に方が美しく僕を誘惑するのを感じる｣という文。死の美に誘惑されるのは日本浪漫派として自然なことだけど，その例として，ルネサンス期のイタリアで地動説を主張して宗教裁判にかけられ火刑に処せられたジョルダノ・ブルノオと，あなたと同時代の日本で左翼思想のために特高警察に捕らえられ拷問死させられた小林多喜二を挙げるとは。ほかにもっと，日本浪漫派風の右翼思想に似合う死に方の例はあったろうにと，わたしでなくてもたいていの人が思うでしょう。
あなたは，あの時代の若者にしては珍しいほど政治オンチだったのですね。
Ⅱ
あなたは，詩のほかに，散文の作品もいくつか残しています。｢小説｣と呼ぶのはちょっとためらわれる，メルヘン風というか大人(若い大人)のためのおとぎ話のような散文。高見順には酷評されたけど，四季派の詩人たちからは好意的に受け止められた。あなた自身が『鮎の歌』というタイトルでまとめるつもりでいた6編は，『萱草に寄す』や『曉と夕の詩』を構成する詩と平行して制作され，テーマも共通しています。
それ以前に，｢詩人の生涯｣とでもいうべきテーマでまとめられそうないくつかの物語を書いていますね。そのうち，『生涯の歌』と『春のごろつき』には，同じようなモティーフがあります。若者が高い所から墜落するというモティーフ。
『生涯の歌』のラムダは，10年あまりを山の中で孤独に過ごした後，街に戻り，雲となって飛び去ると信じて，衆人環視の中を高く張られたロープに足を乗せ，駆け出した。『春のごろつき』の詩人ブラモンは，誰にも読まれない詩を一人で書き綴る生涯の後，トランプ占いに誘われるように，高い塔の上にある自分の部屋の窓から鳥のように手をひろげ身をおどらせた。二人とも，もちろん，重力の法則という現実の力によって墜落し地面にたたきつけられて死ぬ。
この2つの作品がかかれたのは1935年から36年にかけて。あなたがソネット(十四行詩)という形式を発見し詩人の出発を準備していた頃。この頃すでに，現実の力に敗れ，夭折する運命を予感していたのですか？････いや，作中人物と作者を安易につなげて考えるべきではない。とりわけ，あなたの場合は。そうではあるけど，若者が高い所から墜落するモティーフをこの頃のあなたが気に入っていたのは事実でしょう。
堀辰雄も若い頃に同じようなモティーフの作品を書いています。『羽ばたき』という短編小説。この作品の主人公，少年ジジは，女装して街を徘徊し，何度か窃盗を繰り返した後，追っ手に追われて，居場所としている塔のてっぺんの窓から鳩と一緒に飛び立とうとして墜落した。
あなたは尊敬する堀辰雄の作品を繰り返し読んでいたはずだし，とりわけ若い頃の作品を愛好して，堀辰雄が若い頃に書いたいくつかの詩を編集した手書きの『堀辰雄詩集』を作っているくらいだから，『羽ばたき』も読んでいたでしょう。そのモティーフを拾い上げ(本歌取りして)，墜落する主人公を少年から若い芸術家に変更した。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊ ＊ ＊
あなたは，小学校入学から大学卒業までずっと優等生でした。優等生であればこそ，学校を卒業して実社会に出て行くことへの不安，自分は実生活者として失格ではないかという恐れを抱いていたのではないですか？
凡才ならば，目の前の試験だけで手一杯だけど，試験くらい楽にこなせる秀才は，学校と実社会の隔たり，学校生活と職業生活の落差を認識して，｢自分は，試験には合格できるけど，現場でほんとうに使い物になるのだろうか｣という不安を覚えたこともあったのでは？
1937年3月に建築学科を卒業し，4月に建築事務所に就職してからは，仕事が辛いとこぼす手紙を何通も友人たちに書き送っているけど，就職して初めて｢こと志と違う｣ことに気付いたのですか？････わたしは，あなたほどの秀才なら，学生時代からある程度予想していただろうと思います。確実な根拠のない推測でだけど，残された手紙や手記から浮かび上がるあなたの人生に，そんな不安を想定したくなります。
学生時代の課題設計は夢の結晶であり得るかもしれないけど，社会における建築家の仕事は現実の要請を踏まえたクライエントの発注からしか始まらないことを，聡明なあなたはよく分かっていたでしょう。であれば，あくまでも現実に規定される建築家の仕事を生涯続けていけるのかという疑問が，学生時代からあなたの胸中に宿っていたのでは？
学生時代，あなたは建築学科の学生にとって栄誉ある辰野賞を1年生から3年生まで3年連続して受賞した。自他共に認める秀才でした。だけど，学校の秀才が実社会にもうまく適応できるとは限らないし，それを自覚すれば，秀才に寄せられる周囲の期待の大きさに気がひるむこともある。
たとえば，大学を卒業する1937年を迎えた1月2日に田中一三宛に書いた手紙の中で，一年が次の一年にかわる日(大晦日・元日)がなぜ冬に用意されているのかと問を発して｢････たとえば それを 春に，ひとつの花の咲く日にかわるのだと きめてごらん。花は，気候や雨や風や太陽のために，自分の思う日に咲くことは出来ない，しかし 人は その花をたのみに 一年を取りかえようとする。そうしたら，その花は 自分に 負わされている，つとめの重さと，そして 罪と苦しみのために どうするだろう！考えただけでも それは あまりにむごいことではないか。････｣と自分で答えている。
花に負わされたつとめの重さ，それはあなた自身が肌身で感じる期待の重さではなかったか。同級生の視線，教授たちの輿望，そして母親の期待。
あなたは立原家の長男だから家業を継ぐ立場にあったけど，自分の希望が受け入れられて家業は次弟が継ぎ，あなたはのびのびと大学で勉学に，そして文学創作に，励むことができた。もともと天文学志望だったけど，経済的な安定を望む母の希望で，建築学科に志望を変えたのは，家業を継がずに大学に進学すること自体が大きなわがままだから，それ以上のわがままを通すことは気が引けて，母の希望に従ったのでしょう。
建築学科では3年連続して辰野賞を受賞し，卒業に当たってはその学年でとりわけ優秀の学生が一人だけ推薦される石本建築事務所に推薦され入社しました。
就職した先では，それなりに評価されており，職場では明るく振る舞っていたようですが，仕事を終えて自室に帰ると，不全感や不適応感に取り付かれて，悩みを綴った手紙を何通も友人に書き送っていますね。
こんなあなたの心の動き，わたしには，身につまされるほどよく分かる部分と，無縁でいられる部分があります。実社会への不安はよく分かります。中学生の頃のわたしがそうだったから。学校では優等生であっても，実社会でじょうずに人と交わって仕事をこなしていける自信がない。自分にできそうもない仕事を｢これもだめ，あれもだめ････｣と除外していったら，あとには何も残らないだろうという不安。結局わたしは『車輪の下』のハンスの運命をたどるのかという恐れ。
わたしの場合，高校ではもはや優等生ではなく，中くらいの成績でした。かてて加えて，高校時代に1年ほど家出して，親もわたしの将来への期待をかなり諦めたようでした。大学では，人並みはずれた読書家だったおかげで蓄積していた膨大な知識のため｢化け物｣のように思われたことはあったけど，幸いなことに化け物は，優等生が負わされる期待とは無縁でいられました。同級生には，すべての科目で｢優｣を取る学生もいましたが，わたしはあらゆる試験で満点を連ねたわけではないのです。
わたしは，あなたが難破した人生の難所をうまく避けて通ったのでしょうか？････あなたとわたしの関係は，芥川龍之介と堀辰雄の関係にちょっとばかり似ているかもしれません。
あなたもよくご存じのとおり，芥川龍之介は堀辰雄の尊敬する師であり，堀辰雄は芥川龍之介にとって将来を嘱望した愛弟子であり，どちらも互いに似た資質の持ち主だと自覚しあっていました。その尊敬もし自分に似ているとも思っていた師が人生に難破して自殺するのを，堀辰雄は23歳の時に目の当たりにする。｢どうすれば，自分は師がたどった自滅の運命を逃れられるか？｣これが若き日の堀辰雄の最大の課題となり，その後の人生経路，文学経路を決めていく。
わたしは，あなたの夭折の運命を逃れようとしたのではありません。そんな運命は自分には縁がないと断念したのでした。自分はあなたの死の年齢を過ぎて生きていくだろうと予感し，そのとおりになった20代の頃。その頃のわたしはまだ，あなたの作品しか読んだことがなくて，あなたが精巧に作り上げた虚構の詩人の生涯をあなた自身の生涯だと素朴に信じていました。
雲に 花に
そして あの夕ぐれの花たちに
私らの 短いいのちが
どれだけ ねたましく おもえるだろう
あなたの短い命がわたしにねたましく思えたこともあります。きらめくような才能を惜し気もなく蕩尽し，瞬くうちに一生分の仕事をなし終えて，さっさとこの世に別れを告げる，自分はそんな人々の仲間ではない。歳月をかけて努力を継続し積み上げることによってしか何事かをなしえない，自分はそんな種族であるという認識，少しばかり苦みのこもった認識でした。それにしても，こんな自分の資質を認識し，それにふさわしい人生経路を設計することで，わたしは結果としてあなたがつまずいた難所を避けたのでしょう。
そして今，わたしはすでにあなたの寿命の2倍を超える人生を生きて，これからもしばらくは生きていくでしょう。
Ⅲ
あなたは，明治以後の近代詩の詩人たちの間でも指折りの人気者だと言われると，照れますか？
死後すぐに，あなたとも縁の深かった山本書店から3巻の作品集が刊行され，その後，4回も全集が刊行されています。文庫本でも，1960年代に角川文庫から，そして1980年代には岩波文庫から，あなたの詩をほぼ網羅した詩集が刊行されています。
角川文庫の『立原道造詩集』には中村真一郎が，岩波文庫の『立原道造詩集』には杉浦明平が，ていねいな友情のこもった解説を書いています。この二人は，あなたにとって最良の友だったのでしょう。文庫本の解説のほかにも，機会あるごとにあなたの思い出を語っています。その語り口はずいぶん違うけど，それは，二人があなたの特定の一面だけを語っているというより，あなた自身が，その二人に別の姿を見せていたということでしょう。
杉浦明平，あなたが親しみを込めて｢ミンペイ｣とか｢ミン｣と呼んでいた1歳年上の友。彼はあなたにとって，まだ熟さない詩想を打ち明け，創作の過程につきあわせることのできる同族であり，何でも語ることのできる議論の相手だったのでしょう。わたしも思い当たります。1～2歳年上というのは，ずっと年上の人に対するように遠慮と敬意を払う必要はないし，また年下への気遣いも要らない。どんな議論をふっかけることもできる，｢論敵｣として絶好です。
ミンペイさんも，｢会えば仲良くわかれるということはなかった。どちらかが涙を流すまで，白秋やリルケや三好達治の短歌のことで争うのがつねであった｣と書いています。
｢どちらかが････｣と書いているけど，たいていあなたの方が涙を流す側だったのでしょう。リアリストとロマンティストが議論したら，少なくとも論理の上では，ロマンティストが負けるに決まっているから。それでも，次に会った日には，｢前に数時間やっても結論の出なかった論争の続きを，新しい論旨，新しい証拠をもって展開したり，昨夜頭に浮かんだ詩句の切れはしを唱誦したり，構想中の物語に登場する主人公の名前を繰り返したりするのだった｣のだから，ほんとうに｢ウマが合う｣どうしだったんですね。
あなたにとってミンペイさんは，自分の考えを鍛えるための異論・反論を提供してくれる友だった。だからあなたも，彼に対してはことさら異論を唱えた。ミンペイさんの思い出には，あなたが日本浪漫派ばりの右翼思想を吹聴する場面がたびたび出てくるけど，ミンペイさんが左翼の人だったからあなたはことさら彼にそんな議論をふっかけたという事情もありそうですね。わたしも，20歳前後の年頃には，心の中で親近感を抱いている思想に対してであっても，あえてケチをつけるような議論を吹きかけたことがあるから。
1937年にあなたが大学を卒業して建築事務所勤務になり，一緒に発行してきた雑誌『未成年』も事実上の廃刊になって会う機会が減ってから，そしてあなたが日本浪漫派ばりの思想をことあるごとに語るようになってから，ちょっとばかり仲が疎遠になったかもしれないけど，それでもその年の12月，追分の油屋の火事の後，故郷が消滅するほどの衝撃と喪失感をあなたに与えた辛い経験を経て，あなたが雑誌『文芸』に『晩秋』という詩を発表した時，それを読んだミンペイさんは12月12日に葉書を送っていますね。事務的な連絡を書いた後，ポツリと付け足すように｢『文芸』の詩はかなしい｣と書いている。
あなたの運命を気遣っていたのですよ。
中村真一郎はあなたより4歳年下。｢中村君｣と呼びかけていたこの年下の，自分に親しい資質を持つ友に対して，あなたは大人としての気配りをもって接していたのでしょう。それは，距離を置くというのではないけど，ミンペイさんに対してそうであったように自分の意見をしゃにむに主張することはなかったはず。わたしだって，若気の至りの頃でも，年下の友人・知人には，それなりの気配りをしたものです。
中村君にとってあなたは，まず旧制高校の先輩，そして大学の入学祝いに匿名でフランシス・ジャムの詩集を贈ってくれた人。そしてまた，年上の繊細で心優しい詩人でした。その詩人の思い出を文庫本の解説に書いています；
｢頭の先から足の先まで，『詩人』 － 世間の人が，詩人というものを普通の社会人ではなく，なにか突飛な特別な変わりだねのようなものとして空想する時の，絵に描いた詩人の姿をして，空中を飛ぶような身軽な歩きかたで，動き回っていた････｣
｢その時代のなかで彼は時代錯誤のように生き，不思議に透明で，夢のような甘美な，純粋詩を，その骸骨のような細い指先でそこらにまき散らしながら，通りすぎて行った。『街には，軍歌ばかりが，聞こえるようになる』とつぶやきながら････｣
さらに中村君は，1938年夏，追分で，『優しき歌』の制作過程に立ち会うという幸運にも恵まれました。建築家として秀でた構築のセンスを持つ詩人が，緻密に詩集を組み立てていくのを身近に見るという特権的な経験の思い出を，彼はいろんな機会に語っています。
文庫本の立原道造詩集は角川文庫の方が先に出版されました。この本は，数ある立原道造詩集の中でも一番広く読まれたもので，わたしは，そしてわたしの年代の多くの文学少年少女は，その巻末に付けられた中村真一郎の解説を通して立原道造の人物像を描いたはずです。それは，わたしにとっては幸せなことでした。だから，岩波文庫の立原道造詩集に添えられた杉浦明平の解説を読んで，ちょっと驚きもしたのですが。
この二人の友，共通点もあります。どちらも長命でした。あなたの3倍以上の寿命を生きて，杉浦明平は88歳で，中村真一郎は79歳で，亡くなりました。
ついでに言い添えれば，水戸部アサイさんもまたあなたの3倍以上の寿命を生きて76歳で亡くなっています。でも，彼女については，ことのついでに語ってはいけませんね。少なくとも，ミンペイさんや中村君と同じくらいの手間暇かけて語らないと。
それはまた，彼女との出会いの場になった石本建築事務所に入社した年であり，過去の恋愛の経験を結晶化した詩集を編んだ年でもある1937年と，彼女を｢発見し｣，新たな人生を夢見て果たせなかったあなたの生涯の最後の年である1938年のあなたについて語ることでもあります。
Ⅳ
1937年は一見あなたの豊穣の年のように見えます。この年に詩集『萱草に寄す』と『曉と夕の詩』が刊行され，あなたの｢詩人の出発｣が印されたのだから。
ただ，この2つの詩集に収められた詩編が書かれたのは，その前の1935年から36年にかけてであり，それまでに作っていた詩の中から10編ずつを選んで配列し，全体として物語詩となる詩集を構成する作業も36年のうちにほぼ完了して，37年に入るとすぐに印刷所に回されているから，それは1937年の成果というより35～36年の成果の集成と言うべきでしょう。
これら2つの詩集は，あなたの出発点であるとともにまた到達点でもありました。1935年頃に発見したソネット(十四行詩)という表現スタイルの一つの到達点。その後あなたも，新たな方向，これまでと違う表現スタイルを模索するでしょう。この年は，大学を卒業するという人生の節目であるだけでなく，あなたの文学表現の節目ともなります。
この年の初めに，あなたはすでに引用した，1月2日の田中一三に宛てた手紙で，花に負わされたつとめの重さを語り，1月5日の生田勉に宛てた手紙で，鼠のいじけた姿を語っている。
未発表詩『私の 貧しさは』が書かれたと推定されているのは3～4月頃。
私の 貧しさは 暗い涙をたれ
ひっそりと 建物の壁に沿って 歩く
風が 私の髪を かきみだしている
怒ったように････
この年の末に発表される『晩秋』の寂しさを前触れするように，わたしには思えます。
3月に卒業，4月から石本建築事務所に勤務。そして，仕事の愚痴をこぼす手紙を友人に書き送るようになる。特に，同じ年に同じ建築学科を卒業し大蔵省営繕課に勤務することになった小場晴夫に。同じ宮仕えの身として，共感してくれると思ったのでしょう。
この年の夏，なぜか多くの立原道造研究では触れられていないけど，わたしからみると重要だと思われる出来事があります。大学在学中の猶予期間が終わって，あなたは徴兵検査を受け，丙種不合格でした。兵役は務まらないと判定されたわけです。わたしから見ると，そしてたぶんすべての立原道造ファンから見ても，軍隊はあなたには絶対に向かないから，徴兵検査で不合格だったのはむしろ喜ぶべきことです。だけど，あなた自身にとってはどうだったのでしょう？
わたしは戦前の日本の空気をリアルタイムで知ってはいません。だけど親の世代の大人たちの日頃の何気ない会話をはたで聞きながら，それなりに理解しています。戦前の日本男児にとって，兵役は成人への通過儀礼であり，兵隊に行ってきて一人前，兵隊になれない(徴兵検査不合格)のは人間のクズとは言わないまでも半人前と見なされる雰囲気であったこと。
あれほど筆まめなあなたが，この件に関しては1通の手紙も書いていない。あなたにとって，何ら語る価値のない些細なことだったのか？････そうかもしれない。現実から切り離された虚構の詩の世界こそが自分の故郷と任じている人にとって，徴兵検査など何の意味もないことだったかもしれません。
でも，そうでないかもしれない。あなたは，他者からの評価に敏感でした。卒業制作への辰野賞が銀牌でなく銅牌だったことを友人に愚痴るほどに。そんなあなたが，世間の視線から超然としていられたのか，｢不合格は芸術家の勲章｣と開き直れたのか，わたしはそうだと信じきれない。
この一件は，職場での不適合感に加えて，実社会で生きていく能力がないという自己認識をあなたの心に烙印のように焼き付けたのではないですか？
ちょうどその頃から体調を崩し，10月から11月上旬まで仕事を休んでいます。あなたの命を奪う結核の初期症状だったのでしょう。追分に療養に出かけ，宿泊していた油屋が11月14日，火事で焼け落ちた。あなたは2階の部屋に取り残され，逃げまどい，間一髪のところを窓の格子を切り壊したとび職に救出される。この時あなたを襲った死の恐怖。堀辰雄がなじんでいた肺結核の忍び寄るような静かな死の恐怖ではない，突然現われた凶暴な死の恐怖。堀辰雄が時間をかけて飼い慣らした死とは，ぜんぜん違う姿を取って立ち現われた死の恐怖。あなたは手なずけることができなかったのでしょう。
この死の恐怖に追い打ちをかけるのが，喪失感。慣れ親しんだ宿が消え失せた追分の風景は，あなたにとって見知らぬ土地のように思われた。故郷を失った感覚。一つの表現スタイルを完成させた後，新しいスタイルを探しあぐねていたさなかの故郷喪失。
社会生活でも個人生活でも打撃を受け，精神的な危機が深まったこの年の暮れ，『文芸』に掲載された『晩秋』
あわれな 僕の魂よ
おそい秋の午後には 行くがいい
建築と建築とが さびしい影を曳いている
人どおりのすくない 裏道を
雲鳥を高く飛ばせている
落葉をかなしく舞わせている
あの郷愁の歌の心のままに 僕よ
おまえは 限りなくつつましくあるがいい
おまえが 友を呼ぼうと 拒もうと
おまえは 永久孤独に 餓えているであろう
行くがいい きょうの落日のときまで
すくなかったいくつもの風景たちが
おまえの歩みを ささえるだろう
おまえは そして 自分を護りながら泣くであろう
これを読んで杉浦明平は｢『文芸』の詩はかなしい｣と葉書に書いてよこし，それから50年を隔てて岩波文庫の『立原道造詩集』の解説にも｢一読したわたしは胸にずきりと痛みをおぼえた。今まで立原は悲しみを歌いつづけてきたが，それはそよ風のように軽くキラキラと明るく甘かったのに，この作品は思いもよらなかった暗い翳に蔽われていたからだった｣と書いています。
｢心身不調｣の噂も友人たちの間で流れていたんですね。
この危機を乗り越えるため，あなたは日本浪漫派にのめり込み，民族共同体の戦列に連なり，｢古典の親衛隊｣の戦士に転身しようとする。
芳賀檀宛1938年1月下旬の手紙は『日本浪漫派』3月号に掲載されて，よく知られていますが，ほかにもたとえば，杉浦明平宛1938年2月上旬の手紙；
｢････ここに 大きな 諦らめと 経験との日本の血の あるいは 江戸時代の血の 誘惑がある。 たたかわねばならない， そして 打ち克たねばならない。 ここに 出発がある。
一切の戦いは 日常のなかで 意味を以て 深く 行われねばならない。 決意した者のだれが 戦列を とおくに空想したか！ 僕らは すでに戦線についている。････｣
そして神保光太郎宛1938年2月12日の手紙には
｢あなたに指さされた 鋼灰色にかがやく 風の吹きしきる天での飛翔に耐えるために 一羽の猛禽に転身するまで 僕の肉体的な小鳥は鍛えられねばならないと決意します｣
という文があります。鷹になろうとする小鳥の決意表明ですね。
あなたは，三島由紀夫の先達として，30年後に三島由紀夫がたどる道のりをたどり始めたようにも見えました。だけど，ここで一つの運命の変転が生じます。いや，わたしは，あなたの詩精神が復元力を発揮したのだと信じたい。あるいは，詩神ミューズがあなたにほほえんだのだと。
Ⅴ
水戸部アサイさんは，あなたが石本建築事務所に入社した時，すでにタイピストとして勤務していました。でも，その時はあなたの意識にのぼらなかった。あなたがアサイさんを｢発見｣したのはいつ頃なのでしょう。周りの人たちの回想や残された手紙からすると，1938年4月頃には彼女のことをしっかり意識しているみたいですね。
この年の4月上旬の深沢紅子宛の手紙に｢････そのころはもう雨のにおいが甘くなっていました。けさの朝風とおなじように。そのころ，いっしょにはたらいているタイピストの少女が，仕事机の上に沈丁花をかざっていました。････｣とあるし，4月27日に2人の友に宛てて出された2通の手紙には，あなたの胸の弾みが感じられます。
アサイさんは血の通った生身の女性でした。詩人の想像力が構築した記号というべき｢鮎子｣や｢エリーザベト｣ではなく，地に足をつけて生活を営む現実の女性でした。そしてあなたも，ひょっとしたら生まれて初めて，現実世界での愛の生活を夢見たのでしょう。現実を遮断した詩の世界を抜け出して現実の世界に向かおうとする意図。
あるいは，あなたの中にあらかじめそのような意図が芽生えていたから，これまで意識しなかった同じ職場の女性を，一緒に生活を築くべきパートナーとして意識するようになったのかも。この頃からはっきりしてくる，現実に向かおうとするあなたの指向を｢アンガジュマン｣“engagement”という昔々の流行語で呼ぶのは，おかしいですか？････でも，フランス語の動詞engagerを取り入れた英語の単語engage(エンゲージ)には｢婚約｣という意味もあるのだから，さほど奇妙ではないとわたしは思いますよ。
このアンガジュマンへの指向の背後には，現実を遮断した詩の世界，『萱草に寄す』と『曉と夕の詩』の世界の鉱脈はすでに掘り尽くしたから，新たな世界に向けて出発しなければという意識があったのでしょう。そんな心の動きの中で，あなたはアサイさんを｢発見｣した。わたしは，こんな筋道を想定しています。
ところで，この現実の愛の生活への夢，やがて『優しき歌』に結実する夢と，鷹になろうとする決意は，どう関連するのでしょうか？ 反発しあう2つの指向の間であなたの心は引き裂かれたと想定したくなるけど，実際はさほど単純ではないようです。そもそも，虚構の詩の世界を脱して現実の世界に向かおうとするアンガジュマンの意図そのものが，鷹になろうとする決意によって生み出されたのかもしれない。恋人と二人の愛の生活も，戦士の隊列に連なることも，あなたの中では，現実へのそして他者との共同へのアンガジュマンという意味で，同じ方向だったのでしょうか。愛の生活の前提となるはずの平穏な静けさと，力を賛美し闘争に人を駆り立てる日本浪漫派のナショナリズムの間にある断絶と矛盾を，あなたはまだ切実に感じていなかった。わたしは，この年の春か夏頃までは，そうだったのだろうと推測しています。堀辰雄への切ない訣別の言葉を読むと，こんな推測に誘われます。
恋人との愛の生活を歌う作品，それは，かつてのわたしのような素朴な読者にとっては，堀辰雄の『風立ちぬ』の世界に連なる作品だと思い込みそうになります。だけど，あなたは『優しき歌』と平行して『風立ちぬ論』を書き綴り，堀辰雄の世界からの訣別を告げるのです。なぜ，そんなに性急に？
この疑問には，わたしの側の誤解も含まれています。考えてみれば，『風立ちぬ』も，1938年初に終章｢死の影の谷｣が書き上げられ，やっと完成したのです。あなたが『萱草に寄す』と『曉と夕の詩』の詩を書いていた時期と，『風立ちぬ』の諸章の執筆時期はほぼ平行している。この頃，あなただけでなく堀辰雄もまだ成熟の途上にあったのでした。
それにしても，堀辰雄を乗り越えなければならないと熱っぽく語るあなたの姿は不自然な感じがします。離れられないもの，自分に親しいものから無理に離れようとする印象。堀辰雄の結婚がショックだったのでしょうか。それは，ちょうど，親の死後ずっと自分を優しく守ってくれた兄の結婚を知らされた妹が感じるショックにも似ていたのでしょうか。ともかく，あなたは『風立ちぬ論』で恩師に訣別を告げようとする。誰が読んでも不自然で屈曲した分かりにくい論旨によって。
7月21日，あなたは勤務先の建築事務所に健康上の理由で休職届を出す。あなたの本心としては辞表に等しいものだったでしょう。それは，特定の建築事務所を辞めるというだけの決断だったのか，それとも建築家の仕事，予算の制約や施主の意向などの現実に妥協しなければ自分の発想を実現できない建築家の仕事そのものから離れるという決断だったのか。
｢別荘を設計させれば日本一｣と認められたあなたが，もはや自分の才能を発揮できる場はない，個人が別荘を建築家に依頼できる時代ではなくなった，求められるのは公共建築でなければモニュメンタルな建造物ばかりと，自分の時代を認識した結果だったのか。
この日，生田勉宛に送った手紙の中で，愛する少女と婚約しながらそれを破棄してしまったキルケゴールに言及しています。さらにそれに続けて，｢僕の若さが，ひとつのランプの信頼に，ちいさな窓のなかの部屋で風景のホリゾントを狭めながら，過ぎてしまっていいものだろうか。若さとは，つねに疾風怒濤のなかのものでなければならない。そして風景を無限に拡大すること。｣と語っています。
2つの指向の間の矛盾を感じ始めていたのですか？
ロマン主義は，革命を指向するフランスのロマン主義，政治に背を向けるドイツのロマン主義，右翼思想になびいた日本浪漫派など，政治的な色彩はさまざまであるにしても，日常を超えるものへの指向，超人的ともなり得れば野獣的にもなり得るものへの指向を共通の基盤としているでしょう。だからこそ同じ｢ロマン主義｣という言葉でくくられる。一方，生身の恋人との愛の生活は，日常の中に，ひとつのランプとも小さな窓とも例えられる日常の中に，夢を育てようとするものでしょう。｢ランプ｣は，手記『火山灰』で，二人の生活の幸福を象徴するものとして何度か書き記される言葉です。
ともあれ，1年以上も不適合感を抱き続けた仕事から解放され，晩夏から初秋にかけて，執筆途上の『風立ちぬ論』を中断して，あなたは追分に向かう。油屋の火事によって失われたはずの故郷，『萱草に寄す』と『曉と夕の詩』の詩編を生んだ土地，あなたと堀辰雄を結びつける古びた宿場町。ただ，この時，堀辰雄は追分にいなかった。代わりに，年若い友である中村真一郎と語り合いながら，あなたは『優しき歌』の制作に励む。そして時折，東京にいる水戸部アサイに宛てて手紙を書いた。追分からアサイさんに宛てて書かれた手紙は，あなたの数多い手紙の中でもとりわけ美しいものです。
だけど，あなたは『優しき歌』を完成させないまま追分を離れ，東京に戻ってくつろぐ間もなく東北地方に旅立つ。盛岡で1ヶ月あまり，実りの予感もあった時を過ごしながら，結局何も生まないまま東京に戻り，今度は長崎に向けて旅立つ。
この無理な旅行があなたの体をむしばんで死に至らしめたことは，誰の目にも明らかだけど，なぜあなたはこんな日本を縦断するような大旅行を計画し，実行したのか。｢なぜ，愛しあいながら，しかも妨げるだれもいないのに，離れようとねがったりしなくてはならないのだろう｣と，あなた自身が書き付けている。それに答える代わりにあなたは｢こんな僕をみちびいてゆくゲニウスよ｣と自分の運命に語りかける。不安に駆られていたのではないですか？
まず，文学上の不安。それまでの虚構の詩の世界を脱して新しい表現スタイルを模索しながら，それが見つからないのではないかという不安。
そしてもう一つ，実生活上の不安。二人で愛の生活を営む，その現実の基盤をどうやって築くのか。どんな仕事をして生計を立てるのか。建築事務所を辞めた後，筆一本で生活を支えられるのか････そんな不安。ピーターパンのような夢の世界の詩人として立原道造を愛するファンであれば，あまり考えたくない，できれば目をそらしておきたい不安です。でも，この時のあなたは，少なくとも二人の生活を支える責任は感じていたはずです。感じていなければ文字通り無責任でしょう。もちろん，あなたはそんな無責任な人ではない。1938年の春頃から再び書き始められ8月12日まで書き続けられた『火山灰』の後半部分は，その不安と迷いに溢れている。彼女をずっと愛しつづけることができるのか，そして，愛の生活を現実の世界で築くために欠かせない生活能力が自分にあるのか。
｢夢がほんとうに美しい，そして実現はいつも僕らをうらぎる。計画だけを信じよう，ついえてしまういろいろなこころみだけを｣と書いたのは，建築事務所に休職届を出す前なのか後なのか。
｢僕らは夕ぐれにランプをともすことが出来ると書いた日，あの日にふたたびかえれるだろうか｣と書いたのは休職届を出した後ですね。
現実の責任に対峙する不安と迷いは，この後も，いくつかの手紙に，そして『盛岡ノート』や『長崎ノート』にも，間欠的に顔を出します。その責任を逃れるために，死に急ぐような旅行を敢行した，とまで言うのは酷に過ぎるでしょう。でも，そんな不安にせかされて旅を続けた，くらいのことは言ってもいいかと思いますよ。
東北旅行から戻って，長崎旅行に出る前，東京で過ごした一月あまりに，あなたはアサイさんと連れだって街を散歩したり，二人の住まいを立てる予定の土地を見に行ったりしています。そして，日中戦争の一コマである武漢三鎮陥落の提灯行列の熱狂に自ら加わり，皇居の前で群衆とともに万歳三唱する。
その翌日，10月28日に丹下健三宛に書かれた有名な手紙，
｢････提灯を持った大ぜいの人たちの万歳にまざって僕らも万歳を言いました。しかし，どこか僕にはそれが不自然だったのです。僕の大陸の規模の情熱にふさわしくない不自然さが僕が(｢僕を｣の書き間違い？)消極面におしやるのを感じていました。19世紀のSagess(Sagesse｢叡智｣のスペルミス？)の完成したヒューマニズムのことなど頭にあるのではないだろうか。頭が僕をひきずっているのではないだろうか。克服せられなければならない何かがはっきりとあるのではないだろうか････｣
群衆とともに万歳三唱することに不自然さを覚えながら，そんな自分を克服すべきだと書きしるす，この群衆体験は『優しき歌』の世界と日本浪漫派の世界の間の矛盾を再び明瞭に意識させたのでは？ ｢コギトたちのあまりにつめたく，愛情のグルントのない文学者の観念を否定すること｣と書くのはそれからさらに1ヶ月半後だけど。そして，その時点であなたの生命力は尽きていて，もはや何も新しいものを生み出すことはなかったけど。
Ⅵ
第3詩集になるはずだった『優しき歌』は，あなたの中ではできあがっていて，発表する機会を待っている状態だったのでしょうか，それともあなた自身，完成を諦めて放棄したのでしょうか。そして，同じ頃平行して書き進めていた『風に寄せて：その1～その5』は，さらに5編を追加して，独立した詩集，第4詩集とする構想だったのでしょうか？
『優しき歌』の制作過程に身近に立ち会い，｢序の歌｣を含めて11編の詩を並べたスケッチブックを見ていた中村真一郎は，あなたの死後，その記憶に基づいて詩集『優しき歌』を復元し，自分が編纂した角川文庫の『立原道造詩集』に，『萱草に寄す』と『曉と夕の詩』に続く第3詩集として位置づけています。さらに，5編だけ残された『風に寄せて』も，時間があれば詩編を追加されて第4の詩集になるはずだった作品群，いうなれば幻の第4詩集として，ほかの拾遺詩編から独立した扱いにしています。
ほかの出版社から刊行されたさまざまな『立原道造詩集』では，『優しき歌』はともかく『風に寄せて』を独立した詩集のように扱っているものはありません。だけど，角川文庫版『立原道造詩集』は1960年代から80年代にかけて最も普及した立原道造の詩集でしたから，この年代の読者への影響は大きかったでしょう。わたしもそうです。
その後，杉浦明平の編集・解説で刊行された岩波文庫版の『立原道造詩集』では，収録されている詩の数は格段に充実しているけど，『風に寄せて』がほかの拾遺詩編の中に埋没されているのが，寂しかった。さらに最近の詩集では，『優しき歌』でさえ，｢作者の意図は明確でない｣として独立した詩集とは認めず，それぞれの詩編を発表年代順にばらばらに収録しているものもあります。それは，なおさら寂しい。
中村真一郎によって復元された『優しき歌』は，ストーリー性のある物語詩になっている。愛の誕生，期待，ためらい，失意，そして愛の復活。この詩集を，｢作者の意図を明確に示す資料がない｣という実証主義的な理由で解体してしまうのは，いかにももったいない。あなたが『優しき歌』の構想を破棄したことを明確に示す資料が出現しない限り，わたしはこの詩集を愛し続けるでしょう。
『風に寄せて』は，どうするつもりだったのでしょう？わたしは，この5編からなる詩群がとても好きなんです。あなたの作品の中でも一番好きだと言えるくらい。
しかし 僕は かえって来た
おまえのほとりに 草にかくれた小川よ
またくりかえして おまえに言うために
だがきょうだって それはやさしいことなのだ と
で始まる｢その1｣
だれが この風景に 青い地平を
のこさないほどに 無限だろうか しかし
なぜ 僕らが あのはるかな空に 風よ
おまえのように溶けて行ってはいけないのだろうか
と続く｢その3｣
風よ おまえだ そのようなときに
僕に 徒労の名を告げるのは
しかし 告げるな！ 草や木がほろびたとは････
と深い失意を表す｢その4｣の終末。
それを受けて，愛の復活を告げ
おまえは いまは 不安なあこがれで
明るい星の方へ おもむこうとする
うたうような愛に 担われながら
で結ばれる｢その5｣
それは，『優しき歌』のテーマをより小さな構成で反復する反歌のようです。そうであればなおさら，緊密に構成された5編の後にさらに5つの詩をつなげるのは，あるいはこれら5編の間に5つの詩を割り込ませるのは，無理に思える。『風に寄せて』は5編で完結する作品であり，それは『優しき歌』の反歌として，その後に添えられるべきであると。
『優しき歌』と『風に寄せて』は，1938年夏，追分で作られ磨かれたんですね。ここであなたの詩は再び完成された。『萱草に寄す』と『曉と夕の詩』で一つの達成に至り，新しいスタイルを探し求めていたあなたは，生身の恋人と出会い，新たな詩想を使い慣れた十四行詩の形式に盛り込んで，新たな達成を実現した。
別にわたしのオリジナルな意見ではありません。多くの研究者が指摘しています。あなたも，自覚していたでしょう。詩の時代は終わって，これからは散文，小説を目指すと親しい人たちに語ってもいた。『優しき歌』と『風に寄せて』の後も，あなたはいくつかの詩を書き残しているけど，
｢『風に寄せて』が頂点であって，その後は下降線｣
という小川和佑の意見に，わたしだけでなくあなたも同意なさるのでは。
｢その後｣と言っても，あなたに残されていた時間は実質的に3ヶ月ほどだけど，この間のあなたを表現するのは，詩ではなくて，アサイさんのために書き残した2つのノート，散文で書き綴られた『盛岡ノート』と『長崎ノート』でしょう。
Ⅶ
9月に東京を発って，山形，仙台，石巻に立ち寄って，盛岡に1ヶ月ほど滞在した記録である『盛岡ノート』。そこにあなたは豊穣の美，生身の人間の血の通った美を発見した喜びを書き付けます。『優しき歌』で詩の言葉を通して垣間見られた新しい世界が，ここでは果樹園や稲田など現実の実りの姿となって目の前に広がっているような思い。新しい仕事に取り組む希望。北の土地でのあなたの新生を喜ぶ読者にとって，この希望が一人の友人の無遠慮な訪問によって潰えるのを見るのは，なんと悲しいことでしょう。その友人，野村英夫を憎みたくなるほどです。でも，あなたが発見したと信じた新しい世界は，たった一人の友の出現によって崩れ去るほど脆いものだったのか。あなた自身も，自問しています。そして迷い，疑い始める。『優しき歌』の世界もまた幻だったのかと。
その自問を受けて，わたしもまた疑問を発します。恋人と二人して入っていこうと希望した現実の世界，それもまた，ほんとうの現実ではなく，夢想された現実，実質のない現実だったのかと。その夢想された現実が，病気や人間関係というほんとうの現実に逆襲されたのかと。
｢とおいとおい行けないところへの郷愁｣････『萱草に寄す』の中にあってもおかしくない，いかにもあなたらしい言葉遣い。だけど，この文脈において読む時，夢見た現実にたどり着けない不安，もどかしさを表現しているようにも思えます。
病に押し戻されるように，あなたは10月東京に帰ってくる。
治療を受けて小康を取り戻したあなたは自分の病の重篤さをどれほど分かっていたのでしょうか。この頃は再び将来の夢も語るようになりました。中村真一郎にトーマス・マンの作風を目指していると語ったのは，この頃のことです。｢旅行中は，童話の他はトーマス・マンばかり読んで，小説をこれから書いていこうと考えていた｣と聞かされた中村君は意外に思ったようです。わたしも意外です。あなたの世界とトーマス・マンの作風がどうしても結びつかない。わたしにとって，トーマス・マンは『ブデンブローク家の人々』や『ファウストゥス博士』など長大な作品を構築する巨匠であって，その作風は小さく精密な宝石細工のようなあなたの作品世界とかみ合わないのです。
わたしの側の誤解もあります。この時点では『ファウストゥス博士』はもちろん書かれていなかったし，『ヨゼフとその兄弟たち』も未完でした(たぶん，日本には紹介されていなかった)。トーマス・マンは，あなたより40年も早く生まれながら，15年も遅く死んだという事実をつい忘れていました。
1930年代の日本に紹介されたトーマス・マンは，『トーニオ・クレーガー』や『ヴェニスに死す』などの短編，中編に巧みな作家だったのかもしれませんね。だとしたら，まだしもあなたともつながりそうだけど，それにしても，あなたが何年か後あるいは十何年か後に書いたかもしれないトーマス・マン風の作品とは，どんなものでしょう。
小川和佑は，辻邦生の初期の作品，『北の岬』や『夏の砦』の文体にあなたとのつながりを感じ取っています。『夏の砦』はわたしの大好きな作品だから，この時の病気を乗り切り，戦争の時代をくぐり抜けて成熟したあなたが，『優しき歌』を越えた先に，このような薫り高い作品を書いたかもしれないと想像するのは，楽しいです。でも，それは叶わぬ夢でした。
あなたは，自分の命を削り落とすように，長崎に向けて旅立つ。
奈良，京都を巡り，舞鶴に旧友を訪ね，そこから山陰海岸に沿って移動して九州に渡る大旅行。
その途中，京都では芳賀檀の宅に2泊していますね。そこで語り合ったことも多かったはずなのに，『長崎ノート』にはいっさい記述がない。筆まめなあなたがこの旅行の間に書いたたくさんの手紙でも言及していない。この年の1月にはあれほど熱烈な手紙を書き送った相手のうちに泊まっているのに。ただ，水戸部アサイ宛の葉書に｢これから さかりばに行って すこしふらついてから，芳賀さんのところにいこう｣と書いているだけ。『長崎ノート』と残された手紙だけ読んでいると，京都で芳賀檀宅に泊まったことを見落とすほどです。この沈黙に気づくと，それが奇妙に思えてきます。
ひょっとしてこの時，｢コギトたちのつめたさ｣を実感したのですか？ それがはっきり文章で表現されるのは半月後のことだけど。
晩秋というより初冬の日本海は，あなたにどんな印象を与えたのでしょう。宍道湖と中海を横断する船や，日御崎から見えた景色はあなたを感動させたけど，九州に着いて青い空を見てほっとしたのだから，日本海岸の風土はあなたにとって憧れながらも担いきれないものだったのかもしれませんね。
松江から下関を，そしてその先の九州，長崎を目指すあなたの文章，南国への夢を綴る文章，長崎にはきっと良いものがあると信じている，あるいは自分に信じ込ませようとする文章を読むと，
｢遠い山の向こうの知らない街よ
いつか馬車に乗って行きたい街よ
飾り窓の家あるという街
ポプラの並木のあるという街｣
と歌った日々を思い出します。遠く過ぎ去った子供時代の日々。
もちろん，子供はいつか知ることになる。遠い山の向こうの街も，ここと同じようなありふれた街であること，飾り窓の家もポプラの並木もない，ふつうの街であることを。あなたも，それを予感していたのでしょうか。目的地に着くのを引き延ばすように，博多から，久留米，柳川に迂回して，ようやく長崎に向かう。
やはり，長崎も，坂が多いだけのふつうの街でした。そして，長崎での日々を過ごすべき部屋として知人に紹介されたうらぶれた洋館は，荒廃した，あまりに荒廃し果てた建物でした。そこに住み着いた貧しい家族たちの暮らしぶりは，荒廃した建物にふさわしくみじめなものでした。この現実，貧困，生活苦，追分でも盛岡でもあなたの視野に入ってこなかった現実がいやおうなしにあなたの眼前に現われる。それは，あなたを打ちのめし，夢を決定的に奪い去り，再起不能の病の床に臥させる。
なぜ？ とわたしは問いたくなる。なぜ，こんな陳腐な現実に，あなたは打ちのめされたのか。マルテは，パリの惨めな屋根裏部屋に暮らしながら手記を書き綴ったではないか････いや，そう問うわたしにも分かっています。この程度の現実に打ちのめされるほど，あなたの生命力は心身共に尽きていたことを。だとしたら，この時のあなたに，マルテの，いやリルケの強靱な精神を求めても，詮ないこと。
命を奪う病の床で，あなたは母に回帰する。ともに人生を切り開くべき恋人ではなく，すべてを優しく温かく受け入れてくれる母に回帰する弱り切ったあなたの姿。そこであなたが残した最後の詩『南国の空青けれど』も悲しい。詩の内容が悲しいだけではありません，文語定型という詩の形式もまた悲しいのです。
南国の空青けれど
涙あふれて やまず
道なかばにして 道を失いしとき
ふるさと とおく あらわれぬ
････
あなたは，近代日本の口語という，詩を作る素材としていかにも不向きな言語で，芸術性と音楽性の溢れる詩を作るために，努力を重ね，計算を尽くし，技巧を凝らしてきました。あなたの詩の内容を評価しない人たちも，近代日本の口語を詩語に鍛えようとしたあなたの営みは評価します。アララギ派の歌人として文学を始めた杉浦明平に向かって｢だいたい，短歌をつくるのは卑怯だぞ，ちゃんと五七五七七とうまくつくれるように出来ているじゃないか。詩はそんなふうにはいかないんだ｣と議論を吹きかけたあなたが，生涯の終わりに文語の五音節・七音節のリズムに退行する。あなたの命の，そして詩精神の衰弱を見るようで，悲しく寂しい。努力と計算と技巧のための力があなたに残っていなかったことは，分かっているけど。
病んだ体を列車に乗せて，長崎から東京に帰り着いてすぐ，1938年末，あなたは江古田の療養所に入院する。そして翌年3月29日に死去。
アサイさんがそばに付き添って献身的に看護してくれた療養所での3ヶ月，体をむしばむ病がどれほど辛くとも，心は幼子のように安らかだったのでしょうか。もはや，現実生活のために心を砕く必要もなく，優等生の期待に応えるために無理をする必要もなく。｢何かほしいものは？｣と問われて｢五月のそよ風をゼリーにして持って来てください｣と答えることのできた日々。
｢光に耐えないでほろんで行った草木｣のようだったあなたの生涯。現実の風の中で花開くことのなかったあなたの夢。
若い頃のわたしなら，あなたの夢に対してリアリストの立場から批判を加えたかもしれない。かつて，社会変革を夢見る友人たちに向かって，敢えてリアリストの立場から批判を加えたように。
今，あなたの夢が夢で終わるしかなかった人生経路に同伴した後，そして，わたしの若気の至りの時代が遥か遠くに過ぎ去ってしまった後，わたしはあなたの夢のはかなさを批判しようとは思いません。わたしの中にも｢遠い山の向こうの知らない街よ････｣と歌う子供心が潜んでいて，それを大切に守っていきたいと願っているから。それを守るためには，鷹の強さとは違う，しなやかな強さが必要であることを知りつつ。
あなたがどれほどの弱点や欠点を抱えていた人であったとしても，｢欠点を冷静に認識した上で，それでも愛せるものだけが，心から愛するに値する｣とわたしは思う。愛する詩人の欠点に直面して，その欠点を理解しようと努力し，納得し，心から愛していられるのは，あるいは，それだけの手間ひまかけて愛を持続させるに値する詩人に出会えたことは，わたしにとってかけがえのない幸せです。