Ⅸ Blue Note
－ ブルーノート －
年が明けてから，わたしは正式に(？)ブルーノートで仕事し始めた。夜10時から朝6時まで，カウンターの中でほとんどの仕事をこなすようになった。
マスターは，レコードの選曲をするほかは，たいていお客さんと音楽談義していた。怠けているわけではない。選曲は，音楽が売りのジャズ喫茶で一番大切な仕事だった。それに，マスターとジャズについて語り合えるからこそ，お客さんはブルーノートに来るのだろう。
わたしは，喫茶店の｢実務｣とでもいうべき仕事を任された。喫茶店だから当然，コーヒー，紅茶を出す。時間帯的にお酒も出す。ビールとウィスキーくらいだけど。食事メニューは，それまでトーストとホットドッグだけだったけど，わたしがチャーハンを持ち込んだ。わりと好評だった。コップや食器の洗い物も，レジもわたしが担当した。
そうやって，てきぱきと仕事をこなすのが楽しかった。まだ16歳の身で(その年の1月末に17歳になった)責任ある仕事を任されてうれしいという気持ちもあった。｢必要とされている｣という実感。仕事の後でブルーノートに立ち寄ったダックのママがそんなわたしを見て，
｢ジュンちゃんは，うちを辞めてここで働くようになって，良かったね｣
と言ってくれた。その言葉に込められている優しい気遣いが，うれしかった。
ただ一つだけ，喫茶店の実務でマスターに頼んでいたことがある。コーヒーを淹れること。
その頃の喫茶店はたいていそうしていたのだけど，一度に20人分くらいの豆を挽いて，布製のフィルターに入れ，お湯を注いでコーヒーを作っておく。そうしてできあがったコーヒーは，今どきのファーストフードショップのように常時加熱保温しておくのではなく，自然に冷やしておき，お客さんに出す時に小さな鍋で加熱し直す。この，布製フィルターを使ってコーヒーを淹れるのが，わたしは下手だった。自分で淹れたコーヒーとマスターが淹れたコーヒーを飲み比べると，コーヒーの味に詳しくないわたしでも，違いが分かった。だから，コーヒーを淹れることだけは，マスターに頼んでいた。
作りおきのコーヒーが残り少なくなると，マスターに声を掛ける。マスターはコーヒー豆をメジャーカップで計って電動ミルに入れ，スイッチを入れる。20人分くらいのコーヒー豆を一気に粉に挽くと，店じゅうに香りが立ち込めた。もちろん，そうして粉にしたコーヒーを布フィルターに入れてお湯を落としていく時も，香りは店内を包んだ。
コーヒーができあがると，マスターはカップに半分くらい入れてゆっくり味わうように飲む。わたしも時々一緒に飲んだ。お客さんが｢できたてを一杯｣，｢俺も一杯｣と注文することもある。
ブルーノートの常連客は，クレージーホースのバンドマンに限らず，小倉のいろんなところで仕事しているバンドマンが多かった。ほかには，ジャズの好きな水商売の女性が仕事の後にちょくちょく顔を出した。夕方の時間帯には昼間の勤め人や学生もいた。そんな人たちも，それぞれにジャズが好きだから，バンドマンに負けず劣らず，ジャズについて，あるいはジャズに限らず音楽について，語り合っていた。
わたしはその当時も今もジャズに詳しいわけではないけど，印象として語るなら1972～73年頃はジャズがある意味で煮詰まった時代だった。｢新しい音｣，｢独創的な演奏｣を追い求めて，ジャズがだんだん難解になり，演奏にも高度のテクニックを要求されるようになった。ブルーノートでも，そういう当時の最新のジャズが流れることもあったけど，昔ながらの曲，演奏のレコードをかけることもあった。
そんな｢古き良き時代｣のジャズを思わせるレコード(『ジャム・セッション』というタイトルだったと思う)に聴き入っていたバンドマンがしみじみと，
｢この頃はいい時代だったなあ｣
とつぶやいたことがある。
｢いい時代｣････メロディーもリズムも自然で単純で，演奏にも超絶技巧は求められない，そして，そんな音楽にも聴衆は満足していた。そんないい時代から何十年を経て，ジャズも進化し，常に新しいもの，独創的なものを求められ，その求めに応じて，作曲者はこれまでになかった斬新な音を連ねた曲を作り，演奏者は他のだれもがやったことのない演奏を披露する。だけど，そうやって作られる最新の音楽が，かつての単純素朴な音楽より本当に優れているのか？ 本当に聴く人を感動させるのか？････そんな疑問，嘆きがこもっているようなつぶやきだった。
芸術には常に新しさ，独創性が要求される。どれほど良いものであっても，それを繰り返すことは許されない････でも，なぜそうなのだろう？ 本当に良いものなら，なぜそれを繰り返してはいけないのだろう？ こんなことを，16～17歳だったわたしが明瞭に意識していたわけではない。ただ，何となく感じていた。独創性の袋小路とでもいうべきもの。わたしはそのようなものには係わらないで生きていこう，ということもこの時点で明白に自覚したわけではないけど，漠然としたあいまいな予感のようなものとして心に芽生えていた。
その頃ブルーノートで評判だったアルバムで，チック・コリアのReturn to foreverは好きだった。マッコイ・タイナーのSaharaも嫌いではなかった。だけど，マイルス・デイヴィスのOn the cornerになると，ちょっとついて行けないと思った。
ブルーノートのカウンターで仕事している時のわたしは，てきぱきと仕事をこなす，活発で明るい子だった。お客さんたちにも好かれていたと思う。まあ，たいていの大人は，16～17歳の子供のやることは，よほどひどいことでなければ笑って許してくれるものではあるけれど。
活発で明るい子を｢演じていた｣わけではない。仮面ではない。それはそれで，嘘いつわりのない本当のわたし。家出をして水商売の世界に飛び込んでから，自分の中に発見したわたしの姿。この世界に入らなければ，発見されないまま，目覚めないままで終わったかもしれないわたしの姿。
でも，それだけがわたしではない。
学校の教室で，群れを離れて，一人で静かに本を読んでいたわたし，学校の外で，ほかの子供たちの遊びに加わらず，一人で家の近くの野山を散歩していたわたし，そんな独りぼっちのわたしも，いなくなったわけではない。
仕事は10時からだけど，たまに，本を借りたり返したりするために夕方図書館に寄った日など，もっと早くからブルーノートに来ていることもあった。そんな日は，仕事の時間になるまで奥のテーブル席にいて，本を読んでいたり，ほかのお客さんと気安く話をしたりしていた。そして，たまに，一人で物思いにふけるようにぼんやり音楽を聴いていることも。そんな時，独りぼっちのわたしがよみがえる。
その日，わたしは誰もいないテーブル席の片隅に座って聴くともなしにぼんやりジャズを聴いていた。チック・コリアのReturn to foreverだった。マスターはB面の方が好きで，たいていB面をかけるのだけど，この時はA面をかけていた。1曲目はタイトル曲のReturn
to forever。そのベースの響きを聴いていると，女の人が入ってきた。よく来る人で，わたしともちょくちょくおしゃべりしていた。
｢あら，ジュンちゃん。この時間にもう来てたの｣
わたしは彼女の方を向いて，黙ったまま軽くうなずいた。その人はわたしの隣に座った。お互いに話しかけることなく，黙って座っていた。やがて，1曲目が終わり，2曲目のCrystal
silenceの静かで物憂いメロディーが流れ始めると，わたしは椅子に横になり，彼女の膝に頭を乗せた。そんなことをするのは初めてだったけど，彼女は嫌がるふうもなく，そのまま膝枕させてくれた。わたしは黙って目をつむって音楽を聴いていた。そんなわたしの髪の毛に彼女が指をからませるようにそっと頭を撫でてくれた。その指の感触が心地よかった。ゆっくり目を開くと彼女と目が合った。わたしは小さくほほ笑んで，また目を閉じた。
｢今日のジュンはいつものジュンと違うのね｣
わたしは黙ってうなずいて，そのままCrystal silenceのメロディーを聴いていた。
････やがて，10時になった。わたしは起き上がり，｢いつものジュン｣に戻ってカウンターに入った。
そんなふうに早目にブルーノートに来る日も，定刻に来る日も，たいていその前にすぐ近くの銭湯でお風呂を済ませた。
その日も，わたしはいつものように体を洗っていたのだけど，何か気になるので周りをちらりと見回すと，やや間を置いて隣に座っている人，もう老人というべき年頃の男の人がわたしをじっと見つめていた。わたしは気味が悪かったので視線をそらしたけど，その瞬間，視野の片隅にその人の手の動きが目に留まった。わたしを見つめながらオナニーしていた。わたしは，気づかないふりをして，落ち着いて体を洗い，浴槽に入り，ゆっくりお湯につかってから，浴室を出て体を拭き，服を着た。出掛けに振り返ると，その人も更衣室にいて，のろのろとしたしぐさで体を拭きながら，未練がましそうにわたしを見ていた。
嫌悪感，もちろん。だけどそれだけでなく，わたしはその時なぜか憐憫も感じた。何を憐れんだのだろう。彼の老いを憐れんだのか？ それとも，報われるはずのない彼の恋慕の情を憐れんだのか？
その頃のわたしは，男の同性愛者のなめるような視線を落ち着いて受け止められるようになっていたらしい。
その後，もう一度，同じ銭湯でその老人に会った。その時も彼はわたしをじっと見つめ，わたしは彼を無視した。恐怖は感じなかった。そんなことがあったからといって，その銭湯に行くのを止めることもなかった。ブルーノートに一番近いその銭湯の代わりに，もっと遠くの銭湯に行く手間がめんどうだったから。彼を避けるために，そんな手間をかけるほどのことはないと思ったから。
ブルーノートのお客にも一人，わたしを口説こうとした人がいた。この銭湯の老人よりは若い，とは言っても40～50代くらいの年代の男。その人が初めてブルーノートに来て，カウンターに座った時，何かピンと来るものがあった。＜この人はひょっとして････＞
話しかけられたくないなあと思いながら，注文された料理を作ったり，テーブルを片付けたり，洗い物をしたりしていた。そうやってわたしが立ち働くのをその人はカウンターに座ってじっと見ているようだった。そして，わたしの仕事が途切れて一息ついた時，わたしに声をかけてきた。
｢ジュンちゃん(ほかのお客さんがわたしに『ジュンちゃん』と呼びかけるのを聞いていたらしい)，お茶漬けとお好み焼きとステーキでは，どれが一番好き？｣
わたしはためらわず，｢どれも好きじゃない｣と答えた。ほんとうは，どれも嫌いではないけど，相手の気持ちをはねつけるようにそう答えた。
その人は｢おやおや，そうかい｣と言ってちょっと黙ったけど，またいろいろわたしに話しかけて来たので，わたしはお客に対して失礼にならない範囲でなるべく冷淡に対応した。そうしているうちに，その人は話しかけるのを止めた。
それから何日か後，電話が鳴るのでわたしが受話器を取って｢はい，ブルーノートです｣と応答すると，その人からの電話だった。
｢お前，俺を振ったね。まあ，いいけど････｣そう言ってちょっと間を置いて｢マスターに代わってくれ｣と言われたので，マスターを呼んだ。マスターはその人と何か話し込んでいたけど，わたしのことが話題になっているようではなかった。
それからもう1度だけ，来店した。その時は，恋人らしい若い男の子と一緒だった。
そんなことがあったすぐ後，マスターが｢ジュン，ご指名だぞ｣と声をかけた。奥のテーブル席のお客さんがわたしを呼んでいるらしい。男のお客さんだといやだなあと思いながら奥の部屋を覗くと若い女の人たちが3～4人座っていた。そのうちの一人がわたしの顔を見るなり，
｢あなた，ジュンちゃんというの？ 以前，うちに来たことがあるでしょう｣
と話しかけた。
＜うちに来たことがある？＞
突然そんなことを言われてわたしは戸惑った。
｢プレイメイトというお店よ｣
と，店の名前を言われても心当たりがない。
｢2カ月くらい前に3人連れで来たでしょう。ジュンちゃんのほかに，きれいな女の人と中年の男の人｣
｢ああ････｣思い出した。去年の11月，カレンと一緒に行ったお店なんだ。
｢よく，覚えててくれたね｣
｢ダンスが目立ってたからね。それにかわいいし｣
一人がそう言うと彼女たちみんなワッとはしゃいだ。わたしは，彼女たちの隣の席に座り，たあいもない話題でおしゃべりした。10分か15分くらい。その話の流れの中で，彼女たちのうちの一人とデートすることになった。待ち合わせの時間は，彼女たちの仕事が始まるのが夕方6時だから，その前の4時，待ち合わせの場所は，勝山公園の図書館の入り口を提案したら，ちょっと不思議がられた。図書館をデートの待ち合わせ場所にするのは，彼女たちにとって奇妙なことらしい。
こんなおしゃべりをしているうちに，マスターが｢ジュン，職場復帰の時間だぞ｣と呼びに来たので，わたしはカウンターに戻った。
翌日，約束の時間よりちょっと早目に図書館に行くと，彼女はもう来て待っていた。図書館の中には入らず，公園を散歩した。冬の夕日を浴びて，長い影が芝生の上に延びた。
昨夜一緒に来たのは，職場の寮になっているマンションに一緒に暮らしている人たちだとのこと。彼女は，高校を卒業してすぐ，家出同然のように実家を出て，今の仕事をしている。ただ，半年くらい前から母親とは連絡を取り合うようになった。
｢親が連れ戻しに来ないの？｣
｢うん，親も一応わたしのことを認めてくれてるんだ。別に悪いことをしてるわけではないし｣
｢ふーん････｣
そんな親子関係もあるのかという思いだった。彼女の場合，高校を卒業した後のことだから，わたしとは事情が違うのだろうけど。わたしは，自分も家出中であることを話した。高校を途中でやめたことは話さなかった。ブルーノートでも18歳で通していたから。
｢きっと心配しているよ。連絡してあげればいいのに｣
｢そうだね････｣
その話題は切り上げて，本のこと，好きなジャンル，作家のことなどを語り合った。語り合ううちに日が暮れ，わたしたちは暗くなった公園を出て，小倉の繁華街をプレイメイトに向かって歩いた。
途中，何の変哲もないビルの前で彼女は，
｢ここの3階に寮があるの｣
と言いながら，3階の壁面に並んでいる窓の一つを指さした。それからちょっと間をおいて，
｢昨日，ジュンちゃんが席にやってくる前，ほかの人たちが『あの子，かわいいから，寮に連れ込んでみんなで回そうよ』なんて話してたの。わたしは，『そんなのいやだ』って言い張って，やめさせたの｣
と，平静な口調で語った。
それからも，彼女とは3～4回デートした。待ち合わせはいつも図書館。夕方の勝山公園を一緒に散歩しながら語り合った。それだけ。
マスターの個人的なことは，ほとんど知らない。何歳か，どこで生まれたのか，ブルーノートを始めるまでどんな仕事をしていたのか，何も知らない。ただ，彼女がいることは分かっていた。毎日，来ていたから。その人は小倉のクラブのホステスさんで，もともとお客として来ていたのだけど，やがてマスターを好きになり，あるいはマスターが彼女を好きになった。たぶん，わたしがブルーノートの常連になった頃のこと。
ダックで働いて，仕事の後に毎日のようにブルーノートに来ていた頃，お客としてカウンターに座っている彼女を何度か見たことがある。おしゃべりしたこともある。ブルーノートで働くようになって，マスターと恋仲であることが自然に分かった。
その頃，彼女のお店のお客さんで，彼女をひいきにしている人がいた。彼女もそのお客さんを嫌いではなかったらしく，ただのお客とホステスの関係よりは踏み込んだ付き合いをしていたらしい。やがてマスターと恋仲になって，彼女はそのお客との付き合いをどうするか，気に病んでいた。状況として，お客の方に身を引いてもらうしかなかったし，彼女もそう話したのだけど，お客は，怒りはしないまでも，不満が残るような態度だった。彼女はきちんと決着をつけたいようだった。
｢悪い人ではないから，後々しこりが残るような別れ方はしたくないの｣
結局，どちらから言い出したのか分からないけど，マスターとその人が二人で会って，｢腹をわって話し合う｣ことになった。その日，わたしが出勤して間もなく，マスターは待ち合わせの場所に出かけた。二人を引き合わせた後，彼女はブルーノートに戻って来た。心配そうだった。
｢マスターも，そんな無茶なことはしないと思うよ｣
｢相手の方が心配なの。礼儀をわきまえた紳士なんだけど，たまに激することがあるから････｣
どれくらい時間が経っただろう。1時間くらい？ マスターが戻って来た。彼女と目が合うと，にっこりほほ笑んで，｢終わったよ｣と声を掛けた。彼女はほっとした。
その後，そのお客は何度かブルーノートにやって来た。彼女がまだクラブで仕事をしている時間帯に。
カウンターに座ったその人と，会話を交わす機会もあった。彼女の言うとおり，礼儀をわきまえた感じの良い紳士だった。仕事はお医者さんとのことだけど，医者にありがちな人を見下すような雰囲気はなかった。この人とは後々しこりを残すような別れ方をしたくないという彼女の気持ちも分かる。
＜でも，この人の心の奥に何か激しいものが潜んでいるんだ････＞
人の心の不思議をかいま見る思いだった。
スロットマシンがトラブルの種になったのは2月に入ってからのこと。
階段を昇って右手の部屋に置いてある2台のスロットマシン。バンドマンたちが100円，200円の小遣いを入れて遊んでいたけど，しばらくすると1000円，2000円あるいは5000円くらいも使ってしまう人も現れるようになった。手持ちの小遣いがなくなると，それで打ち止めになるのだけど，誰かが｢ツケ｣を頼むようになった。マスターは気軽に応じた。そのお客はちゃんと翌日にそのツケを払うのだけど，そうすると手持ちの小遣いがなくなるので，その日はまたツケでスロットマシンをするようになる。やがて，ツケをする人が2人，3人････5人，10人と増えて来て，翌日にきちんと前日の清算をしない人も出るようになった。
スロットマシンは業者からリースしているものだった。ブルーノートの営業が終わる朝6時頃，業者の人がお金を回収に来る。賭け金から，お客のものになる｢当たり｣の金額を差し引いたのが胴元の取り分で，その何割か(6割くらい？)をリース業者が取り，残りがブルーノートの純益になる。業者はツケの分もきちんと毎日請求する。初めの頃は，ツケで遊ぶお客より現金で遊ぶお客の方が多かったので，スロットマシンに入っている現金でツケの分も含めた業者への支払いを済ますことができたけど，やがてツケで遊ぶ人の方が多くなると，そしてツケの清算が滞る人が増えて来ると，その日に入った現金では業者への支払いに足りなくなった。喫茶の売上げを足して何とか支払いを済ます状態がしばらく続いた後，それでもまだ足りなくなった。2月も半ばを過ぎた頃のこと。
マスターは業者に頭を下げて支払いを猶予してもらった。業者も｢無い袖は振れない｣から，足りない分は待つことにしたけど，｢ツケで遊ばせるのは止めなさい｣とアドバイスした。業者の立場として，いや業者でなくても誰であっても，当然のアドバイスには違いない。マスターも，もうツケはさせないと約束した。
その言葉どおり，スロットマシンのツケは断るようにしたけど，｢どうしても｣，｢今日だけ｣と頼まれると，つい断り切れないこともあった。そして，喫茶の売上げを足しても業者の支払いに足りなくなる事態がそれからも何度か繰り返された。
やがて，マスターが自分でスロットマシンに手を染めるようになったらしい。自分でやって｢当たり｣を出せば，その分が胴元の取り分から差し引かれるので，業者への支払いも減ると考えてのことらしい。マスターがスロットマシンをやるのは，わたしが帰った後なので，実際に見たわけではないけど，彼女が話してくれた。
当たりを出すこともあるけど，負けることの方が多い。何千円もつぎこんで当たりが出ず，泣いていることもあったと彼女は語った。
浅川マキの歌う『朝日の当たる家』を聴いたのはこの頃だったろう。営業時間中に，お客さんたちがいる時に聴いたのか，閉店後，わたしとマスターと彼女の3人で聴いたのか，記憶がはっきりしない。
アニマルズの原曲は，女郎屋で身を持ち崩す男の話だけど，浅川マキは女の立場に置き換えて歌っていた。男に捨てられ，今はニューオーリンズの朝日楼という女郎屋に身を置く女の歌。最後にふるさとの妹たちに｢わたしのようになってくれるな｣と語りかけて歌は終わる。あまり感情を込めず，どちらかと言えば淡々と歌っている。それがマスターには不満なようだった。わたしは生意気にこんな意見を言った；
｢でも，女郎屋に身を沈め，人間らしい心を失ってしまった女という設定なら，あまり感情を込めずこんなふうに歌うのがふさわしんじゃないの？｣
これを言った時，わたしはスロットマシンのことは念頭になかったのだけど，マスターはどんな思いで聞いたのだろう。
わたしがモーツァルトのレコードを買ったのもこの頃だった。以前からモーツァルトは好きで，実家ではよく聴いていた。小遣いでLPレコードを少しずつ買い集めて，家出をする頃には10枚くらいあったかもしれない。ピアノ協奏曲が好きだった。
家出をしてから，全然聴く機会がなかった。小倉に来てからはジャズに浸っているような生活だったけど，この頃ふとモーツァルトが懐かしくなって，ピアノ協奏曲の20番と27番がA面とB面に収録されているレコードを買って，時おり仕事の後に聴いていた。
家出をするまでは，毎日とは言わないまでも週に2～3回くらいは聴いていたモーツァルトを9カ月あまり一度も聴かないでいられたことが，不思議に思えた。いや，逆かもしれない。なぜ，家出して9カ月もたって，またモーツァルトを聴きたくなったのだろう。
懐かしくなった････モーツァルトが，モーツァルトを聴いて過ごした静かな時が，そして高校での日々が････。
去年の夏の終わり頃，路面電車の車窓から福岡高校の建物を見ながら思ったこと＜家出したまま高校に戻れないか＞という思いが心をよぎった。それが不可能なことは分かっていた。高校に戻るなら，家に戻らないといけない。それは，何とも気が重い。
それでも高校に戻るとしたら，2年生からやり直しになるだろう。2年生と3年生の2年間だけがまんして家にいて，大学は実家から通えないところにある大学に進学する････。｢合法的｣な家出。高校を終えれば，それも可能かもしれない。
モーツァルトの調べを聴きながら，こんなことも考えた。
でも，どうして高校に戻りたいと思うのだろう。今の生活は充実しているはずなのに。
ブルーノートのお客さんに嫌な人はいなかった。わたしを可愛がってもくれるし，カウンターでてきぱき仕事する姿を見て｢若いのにしっかりしている｣と褒めてもくれる。それはマスターも同じこと。信頼してくれている。そして，仕事でない時は図書館から借りた本を読んでいる。それで十分なはずなのに････。
疲れたのか。生まれ変わったような活動的な月日の後，蚕が繭の中で眠るように，かつて親しんだ環境で休みたいのかな，時が静かに流れていくあの小さな世界で。
そうかもしれない。でも，疲れだけではない。不安があった。
マスターがスロットマシンにのめり込むようになって，いつか，それも遠い先ではなく近いうちに，この店が行き詰まるだろうという不安。コロンバン，プチプチ，ダック，ブルーノートで仕事してきて，今が一番充実している。こんな仕事場にまた出会えるだろうか？････そして，もっと根本的な不安と迷い。
自分はこれからずっと水商売の世界で生きていく決心がついているのだろうか？ ｢女の子のようにかわいい｣年頃はいずれ終わる。もはやそのような存在として愛されることがなくなっても，わたしはこの世界で生きていけるだろうか？････
水商売の世界で年輪を重ね，充実した人生を送る人もいる。でも，そのように生きていくのに必要な資質，能力を自分は持ち合わせているのだろうか？････自信がなかった。
静の家で水商売の世界をかいま見て，プチプチで水商売の世界に飛び込んだ。その世界で，今まで気づかなかった自分，わたしの中で眠っていたもう一人の自分が生き生きと動き出すのを感じもした。だけど，6ヶ月，7ヶ月，8ヶ月，9ヶ月が過ぎていき，17歳になったわたしは心が揺れた。これからずっとこの世界で生きていくのか？
『楡家の人びと』の中で，院長としての仕事では満たされない思いを『精神医学史』の叙述に注ぎ込んで膨大な原稿を書き綴る楡徹吉の姿が，そして，それを読みながら楡徹吉の気持ちに感情移入している自分の姿が思い浮かんだ。あの頃，南新地の四畳半の部屋で『楡家の人びと』を読んでいた頃から，水商売の世界だけでは満たされない思いが心の奥で芽生えていたのだろうか。
あと何年か猶予期間がほしい。自分の生き方を決めるための猶予期間。今はまだ，人生を決めてしまうのがこわい。････
わたしは，思い切ってマスターに切り出した。ブルーノートをやめたいこと，やめて実家に戻ること，そして高校に復学すること。当然，これまで年齢を偽っていたことも打ち明けた。マスターは，｢そういうことなら，仕方ないな｣と受け入れてくれた。
3月の中旬，わたしは実家に戻り，4月，高校に復学した。この時，わたしは疚[やま]しさを感じるゆとりがなかった。
今，ふと心の片隅をかすめる疚しさ。わたしを受け入れ，かわいがり，愛してくれた女たちが住む世界を捨てて，彼女たちを見捨てて，わたしだけ表の世界に戻ったという疚しさ。